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坂上田村麻呂伝説

掲載日: 2013年8月2日更新

正史にみる坂上田村麻呂

坂上田村麻呂像の写真
坂上田村麻呂像(郡山市美術館蔵)

 坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)は、今から1200年ほど前の平安時代初期の武将で、征夷大将軍として蝦夷【えみし】(現在の東北地方)を討伐した人物です。
 奈良から平安時代にかけて、朝廷は、敵対(あるいは反抗)する蝦夷に対して度々東征していました。
 坂上田村麻呂は最初は大伴弟麻呂の副将の一人として東征して功を上げ、後に征夷大将軍として蝦夷討伐を成功させます。
 晩年は、参議(現在の内閣大臣に相当)・中納言・大納言と出世し、主に政治の中心で活躍しましたが、病によりその生涯を終えました。享年54歳。官位は大納言正三位兼右近衛大将。死後従二位を贈られました。時の天皇は彼の死を悼み、一日喪に服したといいます。


田村市における坂上田村麻呂伝説

 田村市内に残る坂上田村麻呂の伝承は、大滝根山を本拠としていた賊(あるいは鬼)の首領である大多鬼丸を討つための戦いに関するものが非常に多く、陣を張ったところ、戦勝祈願したところ、進軍中でのものごと、戦勝報告とそのお礼として祀った神社に関することなどが多いのが特徴です。
 そのため、田村市内の地名の由来の多くが田村麻呂伝説に結び付けられています。
そして、田村市内に所在する神社仏閣の多くが田村麻呂の建立・奉祀によるものとされています。
 これらの伝承について代表的なものをいくつか抜粋いたしましたので、別表をご覧ください。

 田村市に残る坂上田村麻呂の伝承の多くは、田村麻呂が正義で、田村麻呂に退治された大多鬼丸は賊(あるいは鬼)の首領であるとして語られています。
 しかし、地域によっては「大多鬼丸は賊(あるいは鬼)ではなかった!」とする伝承も存在します。大多鬼丸は実は地元の豪族(指導者)で、民を守るために朝廷の支配に立ち向かいましたが、朝廷に敗れたために賊(あるいは鬼)にされてしまったとする伝承です。
 最後に、大多鬼丸を悪とした伝承と、大多鬼丸を英雄とした伝承の両方を、短くかいつまんで以下に紹介します。

 

田村麻呂軍を導いた白鳥の想像図の画像
田村麻呂軍を導いた白鳥の想像図

坂上田村麻呂の大多鬼丸退治

 昔むかし、陸奥国霧島山(現在の大滝根山)周辺で大多鬼丸を首領とする賊が悪逆非道を繰り返していました。
 時の朝廷は、この賊を征伐するため、坂上田村麻呂を大将とした軍を田村の地に送りました。
 田村麻呂の軍は各地で戦勝祈願しつつ進軍し、ついに大多鬼丸の軍と激突しました。最初は苦戦していた田村麻呂ですが、神託や白鳥の導きにより、ついに大多鬼丸を洞穴(達谷窟)に追い込んで自決させました。首領を失った大多鬼丸の軍は降伏し、この地の戦いは終結しました。田村麻呂は大多鬼丸の武勇を惜しみ、その首をあぶくま一円が見渡せる仙台平に丁重に葬りました。

※昔語りをお聞きになりたいかたは動画「白鳥の道案内」をどうぞ。

大多鬼丸

 昔むかし、陸奥国霧島山(現在の大滝根山)の白銀城に大多鬼丸という豪族が住み、七里ヶ沢(現在の滝根町周辺)を平和に治めていました。
 ある日、大多鬼丸の元に朝廷から、「この地と人を朝廷に差し出せ」という要求がありましたが、大多鬼丸はそれを拒否しました。怒った朝廷は、大多鬼丸を討伐するため、この地に坂上田村麻呂を大将とした大軍を送りました。こうして坂上田村麻呂と大多鬼丸との戦いが始まりました。
 大多鬼丸や部下の鬼五郎は勇猛に戦い、田村麻呂軍相手に善戦しましたが、兵で勝る田村麻呂に次第に追い詰められ、達谷窟で自決して果てました。かくして、大多鬼丸は悪鬼として後世に名を残すことになりました。

※昔語りをお聞きになりたいかたは動画「鬼五郎と幡五郎」をどうぞ。

 

鬼五郎と幡五郎兄弟のブロンズ像の写真
鬼五郎と幡五郎兄弟のブロンズ像

鬼五郎・幡五郎兄弟の伝説はこちらから

参考資料

以下にこのページを作成する上で参考にさせていただいたものを紹介します。

田村市史3 田村市の伝説  田村市教育委員会
 田村市に残る坂上田村麻呂の伝説など238編が収録されています。
 A4版88ページ/定価1,000円/限定700冊
 お問い合わせは田村市教育委員会生涯学習課(電話0247-81-1215)まで。

福島弁 大越の民話「白鳥の道案内」の話だぞい♪  alltamura.tv様(新ウインドウ表示)
 田村民話の会 会田幸子さんによる「白鳥の道案内」のお話

福島弁 大越の民話「鬼五郎と幡五郎」の話だぞい♪  alltamura.tv様(新ウインドウ表示)
 田村民話の会 遠藤利子さんによる「鬼五郎と幡五郎」のお話

郡山市(新ウインドウ表示)、三春町(田村郡)(新ウインドウ表示)、小野町(田村郡)(新ウインドウ表示)
 奥州田村庄は田村市のほかに田村郡および郡山市の東部地域が含まれていました。それぞれの地には田村市にはない坂上田村麻呂の伝説が残っています。
 一例)田村麻呂の誕生秘話、阿武隈川の由来、三春駒の歴史、大多鬼丸を討ったのは○○麻呂?などなど。

Wikipedia(ウィキペディア)(新ウインドウ表示)
 フリーの百科事典です。

別表・田村市の田村麻呂伝承

代表的な伝承

 
名称 由来
大鏑矢神社 鏑矢を放ち、落ちた場所に陣を敷いた。
(或いは鏑矢を奉じて戦勝祈願した)
明石神社と夜明石 明神様境内の石に座って夜を明かし神託を得た。
白鳥神社 白鳥の導きがあったことから白鳥大明神を祀った。
船引(地名) 征討で傷ついた兵士(或いは死者)を舟で引いて運んだ。
大越(地名) 田村麻呂の軍が大声を上げて進軍した。
(【大声】が転じて【大越】)
栗出(地名) 田村麻呂が仙女の教えによりこの地で栗毛の駿馬を得た。
(【栗毛】が転じて【栗出】)
七ツ壇(地名) 戦死した7名の兵を壇を作って葬った。
鳥生平(地名) 白鳥が飛び立った場所。
馬洗戸・休場(地名) 馬を洗わせた場所が【馬洗戸】、休ませた場所が【休場】。
柳清水 鏑矢を砥いだ清水。
【矢砥清水】転じて【柳清水】
達谷窟(鬼穴) 大多鬼丸が最期を遂げた場所。
早稲川 大多鬼丸の部下の鬼五郎・幡五郎兄弟が里長として治めていた地。大竹を切ることが大多鬼丸を切るに通じることから、大きな竹は植えられていないという。また、この地には【鬼五郎】【鬼五郎渓谷】といった地名が存在する。

その他(上記抜粋した分と重複します)

※以下は、「田村市の伝説」に掲載されている伝承から固有名詞のみ抜き出したものです。
  (これでも伝承の一部とのこと)
  尚、詳細につきまして、リンクが張ってあるものはリンク先をご参照ください。
  (★) は田村歴史観光協会様のページに掲載されています。
  (※) は「田村市の伝説」に掲載されています。

 
名称のみ
明石神社(新ウインドウ表示)、明石神社の夜明石、安久津稲荷神社(※)、鎧摺石桜、天日鷲神社(★)、 石高森山(★)、 石森(船引町石森)(※)、 一石寺(※)、 今泉神社(※)、 入水観世音菩薩(★)移ヶ岳観世音(移ヶ岳神社)(新ウインドウ表示)、 馬洗戸(★)、 馬控場(★)、 門鹿の王子神社(※)、 大鏑矢神社、 大倉神社(※)、 大越(大越町)(★)大滝根山鬼五郎渓谷(新ウインドウ表示)、 欠入(★)、 石森の鹿島神社(※)、 北移の鹿島神社(※)、 南移の鹿島神社(※)、 片曽根山、 鹿股神社(※)、 鹿山神社の銀杏(★)、 鬼生稲荷(※)、 熊野神社(※)、 鞍掛山(★)、 鞍骨山(★)、 栗出(大越町栗出)(※)、 五十人山、 越田和(★)、 駒ヶ鼻山(大平山)(★)、 子松神社、仙台平、 慈心院(★)、 常光寺の銀杏(★)、 白鳥神社(★)、 菅谷神社(※)、 諏訪神社の六郷清水(新ウインドウ表示)、正観世音菩薩堂(※)、 大聖寺の毘沙門天(★)、 高柴山の水石(三つ石)(新ウインドウ表示)、田村屋敷(★)、 達谷窟(鬼穴)、東鳥堂観音(★)、 燈明山宝船寺(廃寺)(※)、 堂山寺(堂山王子神社)、戸引き坂(※)、 鳥生平(★)、 七ツ壇(★)、 白山比め(口羊)神社(★)、 馬頭観世音(※)、 針湯荘、 般若寺の文殊菩薩(※)、 日山神社(※)、 日鷲神社(※)、 船引(船引町)(★)峯霊神社、堀越(船引町堀越)(★)、 矢柄神明宮(★) 休場(★)、 矢立の松(★)、 矢砥清水→柳清水(※)、 山口観音(★)、 早稲川(★)

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