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「城館跡(じょうかんあと)」 令和5年11月号掲載

掲載日: 2023年11月1日更新

城館とは、その地を治める領主や武士が住む屋敷と、戦(いくさ)の際に防衛するための機能を持った城郭(じょうかく)を兼ねた建物のことをいいます。

敵から攻められにくいところに屋敷を構え、その周囲を土で盛った土塁(どるい)や堀などで囲みました。城(しろ)というと「立派な天守閣」をイメージされるかもしれませんが、あくまで城は戦のための防衛施設を意味します。天守閣とは、城の中に建てられた遠くを見渡すための高層建築物で、市には天守閣を有した城はありませんでした。

城跡(しろあと)、館跡(たてあと)と呼ばれるところは現在も残っており、市には中世城館跡が90カ所以上確認されています。
今回はその中から、常葉町に所在する市指定史跡「常盤城跡(ときわじょうあと)」と、船引町に所在する「船引城跡(ふねひきじょうあと)」、大越町に所在する「大越城跡(おおごえじょうあと)」について紹介します。

常盤城跡
特(生涯学習課)文化財連載_写真1_常葉舘(常盤城)常盤城_本丸を望む

「常盤城跡」は、常葉小学校の北東にある小高い山にあります。
常盤城は別名「旭城(あさひじょう)」ともいい、築城年は不明ですが、文永年間(1264~1275)に熊谷直則が築いたとされています。熊谷氏の後、赤松氏が城主となり、姓を常盤に改めましたが、常盤貞久の時に三春城主・田村清顕(たむらきよあき)により城主を追われ、田村氏家臣・石沢修理亮が城主となりました。しかし、清顕没後の天正17(1589)年に相馬・岩城連合軍に攻められ落城し、廃城となりました。
城跡は現在、舘公園として整備されています(公園内に城型展望台の模擬天守が建っていますが、当時はありませんでした)。
※写真は現在の様子:常盤城_本丸を望む

船引城跡
特(生涯学習課)文化財連載_写真2_船引舘(船引城)船引城_主郭と土塁

「船引城跡」は、東邦銀行船引支店の背後にある小高い山にあります。
船引城の築城年は不明ですが、田村清顕の叔父にあたる田村憲顕が築いたとされます。清顕没後、家中は伊達派と相馬派に分かれ、天正16(1588)年に相馬義胤(そうまよしたね)が三春城の乗っ取りに失敗した際、義胤は相馬派の田村清康(憲顕の子)が城主だった船引城に籠こもりますが、伊達政宗に攻められ、城を脱しました。その後、政宗により清顕後室(義胤の叔母)を船引城へ隠居、清康を船引城から退去させることが決定されました。城は文禄4(1595)年に破却(はきゃく)され、城跡は現在、舘山公園として整備されています。
※写真は現在の様子:船引城_主郭と土塁

大越城跡
特(生涯学習課)文化財連載_写真3_上大越舘(大越城)
大越城_堀切

「大越城跡」は、大越中学校の南にある小高い山にあります。
大越城は別名「鳴神城(なるかみじょう)」ともいい、築城年は不明ですが、永禄年間(1558~1570)に大越顕光が築いたとされています。顕光は田村清顕の重臣で、清顕没後に相馬派となり、伊達政宗に攻められましたが、落城しませんでした。顕光没後は伊達領となり田村顕康が城主となりましたが、城は文禄4 年に破却されました。
※写真は現在の様子:大越城_堀切

なお、上記3 つの城跡には、当時の土塁や郭、堀などの遺構が今も残っています。

information

所在 常盤城跡(田村市常葉町常葉字舘地内)、船引城跡(田村市船引町船引字舘地内)、大越城跡(田村市大越町上大越字松作地内)
見学 自由
文化財 常盤城跡(市指定)

たむら市政だより

R5.11市政だより

たむら市政だより令和5年11月号より。内容は当時のもの。)

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