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「佐久間庸軒」 令和4年2月号掲載

掲載日: 2022年10月7日更新

今回は田村市が生んだ有名な和算家・佐久間庸軒(さくまようけん)のお話です。
佐久間庸軒青年.JPG

その前に和算とはどのようなものであるかおわかりでしょうか。
現在私たちが学んでいる数学は西洋から伝わったものですが、和算は中国の伝統数学の影響を多少受けてはいるもののそれが伝来する以前の縄文時代から円や円周率の概念が存在し、それらから竪穴住居や環状列石などが作られています。そして日本では奇数が縁起が良いものとされ、七五三やしめ縄づくりなどに用いられてきました。

和算はそこから発展した独自の数学で、江戸時代前期に関孝和(せきたかかず)の出現でより高度に発展した学問ですが、明治に入り西洋数学が主流となって和算が使用されなくなりました。

佐久間庸軒は1819(文政2)年に船引町石森で生まれ、本名は佐久間 纘(つづき)、庸軒の名は今でいうペンネームです。幼いころから父の影響を受け算学を勉強するため、二本松の和算家渡辺一(かず)に師事し、石森から二本松まで毎日歩いて通ったという逸話が残っています。

庸軒の会得した和算は最上(さいじょう)流といい、開祖は山形県最上地方出身の会田安明(あいだやすあき)です。
17歳の時に「当用算法」という本を書くなど大変優秀で、1860(万延元)年に三春藩士となり藩校明徳堂(めいとくどう)の教授役を務めます。明治時代に入ると県の職員となり、測量を行っていましたが、自分だけが国のために働くより多くの人が国のためになるよう算学を教えるため、故郷の石森に戻り、塾を開きます。
現在石森に残っている建物は、「庸軒書斎」として田村市指定文化財となっており、これは父質(ただす)が和算の稽古所として建て、庸軒の和算研究の場となったものです。多くの農民や商人などに算学を教えていた頃にはこの書斎の前に寄宿所があり、全国各地から庸軒を慕って弟子たちが集まっていました。
そして、ここで算学を極めたのち、新たに弟子をとる人もいて、庸軒の門下生は県内外に及びその数は2千人を超えていたといわれています。
058算法起源集004 佐久間庸軒書斎.JPG

また、庸軒は和算を極めるために伊勢や熊野、四国、九州天草など全国各地を巡っているほか、測量学や西洋数学、絵や俳句なども学び、1896(明治29)年に77歳で亡くなりました。
佐久間庸軒晩年.JPG

さて1882(明治15)年に完成した日本三大疏水の一つである安積疏水は、オランダ人技師ファン・ドールンの功績によるところが大きいとされていますが、実際にドールンが現地にいたのはわずか2日で、疏水工事の測量に従事したのは、庸軒の門下生たちが中心となっていました。
庸軒書斎には、自身が書いた書物や当時の測量に使われた道具などが多く残されており、文化財として県指定60点、市指定57点が登録されています。

また、庸軒の弟子で、安積疏水の測量に中心人物として従事した要田の伊藤直記(なおき)が残した測量や和算、数学関係の資料83点も市指定文化財となっています。
写真・伊藤直記.JPG

information

所在 田村市船引町石森字戸屋140
見学 私有地のため、事前に生涯学習課へお問い合わせください。
文化財 佐久間庸軒和算関係資料(県指定・市指定)、佐久間庸軒書斎(市指定)

たむら市政だより

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たむら市政だより令和4年2月号より。内容は当時のもの。)

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