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「坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)①」 令和6年1月号掲載

掲載日: 2023年12月28日更新

平成17(2005)年3 月に合併し、田村市となった滝根町、大越町、都路町、常葉町、船引町は、もともと三春町、小野町とともに田村郡を形成していました。また、昭和40(1965)年まで、現在の郡山市田村町、中田町、西田町も田村郡でした。「田村」という地名は、坂上田村麻呂(以下、田村麻呂)の名が由来しているといわれ、この地域には田村麻呂に関する多くの伝説が残っています。

特(生涯学習課)文化財連載_坂上田村麻呂像(郡山市所蔵)
(写真:坂上田村麻呂像/郡山市所蔵)

では、なぜこの地域に田村麻呂伝説が残っているのでしょうか。

平安時代初期、天皇を中心とした中央集権国家ができつつある中、当時の東北地方は、蝦夷(えみし)によって治められていました。それを倒して統一国家を作ろうと、蝦夷征伐(せいばつ)が何度か行われ、田村麻呂が征夷大将軍として東北地方を平定した功績が認められたからでしょう。
室町時代前半、この地を治めた田村庄司一族(しょうじいちぞく)や、その後、戦国時代にこの地を治めた田村義顕(よしあき)、隆顕(たかあき)、清顕(きよあき)の田村三代も姓を「田村」としたのは、田村麻呂がこの地を平定したことから、『「田村」と名乗れば平定できる』と考えたからかもしれません。

田村麻呂伝説は、田村麻呂の父と母の出会いから田村麻呂誕生、幼少期のエピソード、その後の母との再会といった田村麻呂本人に関するもの、この地方を治めていた蝦夷との戦いに関するもの、入水寺や堂山王子神社、大鏑矢神社など寺院や神社の創建、勧かんじょう請に関するもの、地名や草木、岩などの呼称に関するもの、田村麻呂の敵としてこの地方を治めていた蝦夷の頭領・大多鬼丸(おおたきまる)など、蝦夷側を主人公としたものなどに大きく分類できます。

今回はその中で、田村麻呂の誕生に関するものにスポットを当てます。

田村麻呂の父・苅田麻呂(かりたまろ)が蝦夷との戦いを終えて京に帰る途中、木賊田村(とくさだむら)(郡山市田村町徳定)で阿口陀姫(あくだひめ)に会い、田村麻呂が生まれたものの、「田村麻呂が成人したら京に連れてくるように」と言い残し、苅田麻呂は帰ってしまいます。のちに成人し、京にのぼり、征夷大将軍となってこの地に戻った時、母と再会をしますが、その場所を「あいごうの橋(別に行合橋とも)」と呼ぶようになりました。

ただ、田村麻呂の母親は小野町の郷士の娘が母であったや、木賊田村で出会った女性が虎丸長者(とらまるちょうじゃ)の下女であったという伝説もあります。
特(生涯学習課)文化財連載_母・阿口陀姫を祀る谷地神社(郡山市田村町徳定)
(写真:母・阿口陀姫を祀る谷地神社/郡山市田村町徳定)

次回は、田村市に残る神社、仏閣や地名に関する田村麻呂伝説を紹介します。

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所在 谷地神社(郡山市田村町徳定地内)
見学 自由

たむら市政だより

たむら市政だより1月号

たむら市政だより令和6年1月号より。内容は当時のもの。)

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